むさしの (武蔵野) 

 「女影(おなかげ)が原」の古戦場(日高市女影)
 一面のススキが原であった武蔵野の面影を、すこしだけ伝えている。

 田村剛・本田正次編『武蔵野』(1941,科学主義工業社)より(仮名・漢字は今日のものに改めた)
 「関東山地の東縁から東へ、東京山の手の突端まで兵端に、然し乍ら漸次東へ低下している海抜一八〇米以下の台地がある。第一図にМ面として、縦に平行線を入れた部分がそれである。このМ面は皆同時代の生成物であり、お互い同志親戚の間柄にある。即ち・・・この様に地質学的には親戚全部をМ面、即ち武蔵野面と呼んで居るが、地理学者が普通に称する武蔵野台地とは、西は青梅が扇の要になり、東に向って扇を半分開いた様な台地で入間川、荒川、多摩川に包まれた略々矩形に近い様な地域を指すのである。」
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 武蔵の国の大半の植生は、古代から近世初期まで、ススキ型草原であった。これを「武蔵野」と呼ぶ。
 武蔵の国の原風景は、カシシイなどの常緑広葉樹林、いわゆる照葉樹林であったという。人の手が入るようになると、これを焼き払い、開墾して、「武蔵野」が現出した。『万葉集』時代には、武蔵の国は一面のススキが原であったらしい。
 ススキが原は、一年にいちど野焼き(火入れ)をするなどして維持された。人手による維持が途切れると、森林への遷移が始まる。「武蔵野」のところどころに、二次林として成立したのが、コナラシデクヌギアカマツクリなどからなる雑木林であった。江戸時代中期には、武蔵の国の大半は雑木林に変り、ススキが原としての「武蔵野」は失われた。
 本田正次「武蔵野の野草」(田村剛・本田正次編『武蔵野』所収。1941,科学主義工業社)に、昭和16年(1941)当時の武蔵野の植物景観が、次のように記録されている(仮名・漢字、植物名の表記は、今日のものに改めた)
〔武蔵野植物景観の概要〕
 ・・・雑木林は前に記した通りクヌギコナラクリイヌシデエゴノキ、ヤマハンノキなどを主とし、これに往々ゴンズイヤマボウシムラサキシキブヤブデマリウツギニガキガマズミウシコロシサワフタギヌルデヤマツツジ等を交え、これらにフジツタノブドウエビヅルアケビスイカズラアオツヅラフジツルウメモドキヤマノイモオニドコロクズサルトリイバラ等の纏繞性植物が絡まり、下草としては春はシュンランキジムシロタチツボスミレアカネスミレフデリンドウジュウニヒトエクサボケ等、新緑にはイチヤクソウ、キンランギンラン、クチナシグサ、ウマノアシガタ等、夏にはウツボグサホタルブクロヤマユリ、ヒメトラノオ、ナツノタムラソウ等、秋にはナデシコハギオミナエシヒヨドリバナノダケ、ホタルソウ、シラヤマギクノコンギクリンドウセンブリオケラアキノキリンソウアワコガネギク等が美しく咲き乱れる。
 草地にはススキが一番よく繁茂し、これにオミナエシオトコエシ、ヒキヨモギ、サワヒヨドリツリガネニンジンワレモコウコマツナギチガヤ等生ずる。
 三宝寺、善福寺、井の頭を初め各所の池にはヒツジグサガガブタアサザ、ヒルムシロ、キンギョモ、マツモ、トチカガミ、セキショウモ、クロモ等の水生植物が繁茂し、池の周囲の湿地にはサワギキョウヌマトラノオミツガシワカサスゲヨシマコモ等の湿生植物が生じ、この水を利用してできた水田や溝にはミゾソバ、ミゾカクシ、サギゴケ、コナギ、イボクサ、サデクサ、タガラシ、コオニタビラコレンゲソウオヘビイチゴスズメノテッポウ、カズノコグサ等が繁茂して居る。尚池の附近の樹陰にはイチリンソウニリンソウヤマブキソウ、ヒカゲスミレ、ホウチャクソウ、ヤマトリカブト、ノブキ、ウバユリカタクリイカリソウキツネノカミソリ等が多い。
 荒川沿岸の低湿地草原には特殊な植物群落が発達し、サクラソウノウルシチョウジソウヒキノカサジロボウエンゴサクシロバナスミレノカラマツ等の外にオギヨシを混生し、其の他アゼスゲカサスゲウマスゲを初めスゲの種類が極めて多く、所々に島の様になってゴマキ、オオクロウメモドキ、ノイバラハンノキ、アカメヤナギ等の藪がある。
 畑地や住宅地附近にはスミレタンポポナズナハコベホウコグサニガナジシバリオオジシバリウリクサ、ザクロソウ、トキンソウ、スベリヒユカタバミアカザイヌタデオオイヌタデカモジグサ、ケカモジグサ、エノコログサチカラシバカゼクサオヒジハメヒジハ、アキメヒジハ、ノビエ等が多く、又、アオビユ、オオイヌノフグリタチイヌノフグリアメリカアリタソウヒメジョオンヒメムカシヨモギシロツメクサ等の帰化植物が我物顔に振舞って居る。
 多摩川の川原にはカワラニンジン、カワラハハコ、カワラアカザ、カワラニガナ、オオマツヨイグサ等の特殊の植物景観が見られる。

〔以下、章ごとに触れられる植物名のみを抄録する。まず、「武蔵野と春の七草」〕
 カブ、ダイコン、ナズナ(ペンペングサ)、オギョウ(ホウコグサ)、ハコベラ(ハコベ)、ホトケノザ(タビラコ或はコオニタビラコ)
〔早春の武蔵野〕
 ヨモギ、ヨメナ、スズメノカタビラ、オオイヌノフグリ、イヌノフグリ、ナズナ、ハコベ、
 フキの薹、ヤブカンゾウの芽、アマナ、ヒロハノアマナ、カタクリ、ヒメカンスゲ、タマノカンアオイ
〔春酣の武蔵野〕
 サクラソウ、ノウルシ、チョウジソウ、ヒキノカサ、ジロボウエンゴサク、シロバナスミレ、スイバ、アマドコロ、レンリソウ、コバギボウシ、ムサシノギボウシ、ノカラマツ、クロチク
 ムギ、ダイコン、アブラナ、レンゲソウ、ノミノフスマ、ノミノツヅリ、タネツケバナ、ヘビイチゴ、オヘビイチゴ、ミツバツチグリ、タンポポ、オオジシバリ、イヌナズナ、スミレ、キランソウ、サギゴケ、カキドオシ、タガラシ、
 ムラサキケマン、ヤブエンゴサク、オドリコソウ、ヒカゲスミレ、ホウチャクソウ、ワニグチソウ、クサイチゴ、ヒトリシズカ、ヤマブキソウ
 ツボスミレ、タチツボスミレ、コスミレ、ノジスミレ、アカネスミレ、ヒカゲスミレ、アオイスミレ、ケマルバスミレ、イブキスミレ
 ルリソウ、キュウリグサ、カザグルマ、ヒメニラ、キバナノアマナ
 イカリソウ、ワダソウ、オキナグサ、イチリンソウ、ニリンソウ、フデリンドウ、コケリンドウ、キジムシロ、ジュウニヒトエ、センボンヤリ、クサボケ、ワラビ、チガヤ
〔新緑の武蔵野〕
 キンラン、ギンラン、エビネ、イチヤクソウ、クチナシグサ、カナビキソウ、ヒメハギ、ナツトウダイ、サルトリイバラ、シオデ、フタリシズカ、ミヤコグサ、サワオグルマ、レンリソウ、タツナミソウ、オカタツナミソウ、
 ミツガシワ、カキツバタ
 ノビトメテンナンショウ、モトシロテンナンショウ、ヤマツツジ、ハンノウツツジ、バイカツツジ
〔初夏の武蔵野〕
 ノハナショウブ、ホタルブクロ、ウツボグサ、ニガナ、コウゾリナ、ノアザミ、ネジバナ、ウマノアシガタ、ナワシロイチゴ、ヘビイチゴ、オニノヤガラ(ヌスビトノアシ)、ギンリョウソウ、ドクダミ、オランダガラシ、アサザ、ムラサキ、
〔盛夏の武蔵野〕
 ヒメジョオン、ヒメムカシヨモギ、マツヨイグサ、オオマツヨイグサ、タケニグサ、ヒルガオ、ヤマユリ、オニユリ、ノカラマツ、ノカンゾウ、ヤブカンゾウ、ムサシノワスレグサ、カセンソウ、ナツノタムラソウ、オグルマ、アゼムシロ、シギンカラマツ   






 
 『万葉集』に、

   武蔵野の くさ
(草)はもろむ(諸向)き かもかくも
     きみ
(君)がまにまに吾はよ(寄)りにしを (14/3377,読人知らず)

とある。草がみな同じ方向に靡いているというのは、強い風によるのであろう。
 武蔵野で行われた野焼きは、在原業平(825-880)を主人公とした『伊勢物語』(11c.頃)に取り上げられている。
 むかし、をとこありけり。人のむすめをぬすみて、武蔵野へ率(ゐ)て行くほどに、ぬす人なりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらのなかにおきて、逃げにけり。道来る人、この野はぬす人あなりとて、火つけむとす。女、わびて、

   武蔵野はけふはな焼きそ若草のつまもこもれり吾もこもれり

とよみけるをききて、女をばとりて、ともに率ていにけり。
 今日に残る野火止(のびどめ)の地名はこの野焼きに関係するという。
 此あたりに野火とめのつかといふ塚あり。けふはなやきそと詠ぜしによりて。烽火たちまちにやけとまりけるとなむ。それより此塚をのびとめと名づけ侍るよし。國の人申侍ければ。
   わか草の妻もこもらぬ冬されに軈てもかるゝのひとめの塚
道興准后『廻國雜記』(1486)   
 野火留の里は、昔男の我もこもれりとありし所と聞くに、そのあたりに思はれてなつかしく。此辺西瓜を作る。
   瓜むいて芒の風に吹かれけり
小林一茶『草津道の記』(1808)  
 今日、野火止塚・業平塚と呼ばれる塚が平林寺(新座市野火止)境内に現存するが、実際には古い古墳であろう、ともいう。
 
 文学作品における武蔵野の描写としてよく引かれるものは、後深草院二条(源雅忠の女,1258-?)が、晩年に一生を振返って書いた『問はず語り』(ca.1304)の中の、次の一文。
 正応三年(1290,作者33歳)秋八月、善光寺より帰り、武蔵野の秋を探る。八月のはじめつかたにもなりぬれば、武蔵野の秋の景色ゆかしさにこそ今までこれらにも侍りつれ、と思ひて、武蔵国へかへりて、浅草と申す堂あり。十一面観音のおはします、霊仏と申すもゆかしくて参るに、野のなかをはるばるとわけゆくに、はぎ、をみなへし、をぎ、すすきよりほかは、またまじる物もなく、これが高さは、馬にのりたる男の見えぬほどなれば、おしはかるべし。三日にや、わけゆけども尽きもせず。ちとそばへ行く道にこそ宿などもあれ、はるばる一通りは、こしかたゆくすゑ野原なり。観音堂はちとひきあがりて、それも木などはなき原の中におはしますに、まめやかに草の原よりいづる月かげと思ひいづれば、こよひは十五夜なりけり。・・・あけぬれば、さのみ野原にやどるべきならねばかへりぬ。

 歌に詠われた武蔵野もススキが原。


   秋風の ふきとふきぬる むさしのは なべてくさばの 色かはりけり
     
(よみ人しらず、『古今和歌集』)
   たまにぬく つゆはこぼれて むさしのの くさのは
(葉)むすぶ 秋のはつかぜ
     
(西行(1118-1190)『山家集』)

 そのほか、

   むさし野は 月の入るべき 嶺もなし 尾花が末に かる白雲
(1215,源通方)
   むさしのや ゆけども秋の はてぞなき いかなる風か 末に吹くらん
(源通光)
   行末は 空もひとつの むさし野に 草のはらより いづる月影
(同)
 
 平安時代、武蔵野の名花として、ムラサキが意識された。

   紫の ひともと故に むさし野の 草はみながら あはれとぞ見る
     
(読み人しらず、『古今和歌集』17)

とある。この歌は、「武蔵野、一本の紫、ゆかりの人」という連携したイメージを人々に植えつけ、以下に挙げるような歌を生み出した。

   むらさきの 色こき時は めもはるに 野なるくさ木ぞ わかれざりける
     
(在原業平(825-880)、『古今集』17・『伊勢物語』41)
   武蔵野に いろやかよへる 藤の花 若紫に そめて見ゆらん
 (913『亭子院歌合』)
   武蔵野は 袖ひつ許 わけしかど わか紫は たづねわびにき
 (よみ人しらず、『後撰集』)
   紫の 色にはさくな むさしのの 草のゆかりと 人もこそしれ
     
(藤原高光(941-994)、『拾遺和歌集』)
   むさし野の ゆかりの色も とひわびぬ みながら霞む 春の若草
     
(藤原定家(1162-1241)、『最勝四天王院障子和歌』)
   さらに又 つまどふくれの 武蔵野に ゆかりの草の 色もむつまし
     
(藤原(西園寺)公経(1171-1244)、『千五百番歌合』)
 
 ススキが原としての武蔵野は、江戸時代前期まで続いた。その頃になると、詠み人知らずの次の歌が、人口に膾炙した。

   武蔵野は 月の入るべき 山もなし 草より出でて 草にこそ入れ
 

   武蔵野にひろごる菊のひとかぶた 
(芭蕉,1644-1694)
   むさし野やさはるものなき君が笠 
(同)

   きじ啼
(なく)や草の武蔵の八平氏 (蕪村,1716-1783)
 
 武蔵野が雑木林に変ったのは、江戸時代中期以降である。
 近代に入ると、国木田独歩(1871-1908)が雑木林としての武蔵野を描写し(『武蔵野』1898)、これより武蔵野は雑木林、という観念が出来上がった。
 そのほか、

   武蔵野の芒の梟買ひに来ておそかりしかば灯ともしにけり
   暮れて洗ふ大根
(おほね)の白さ土低く武蔵野の闇はひろがりて居り
       
(島木赤彦『馬鈴薯の花』)
 
源順『倭名類聚抄』(ca.934)巻5「武蔵国」には、

武蔵国〔国府在多磨郡。行程上二十九日、下十五日。〕管二十一〔田三万五千五百七十四町七段九十六歩。正公各四十万束。本稲百一万三千七百五十束五把、雑稲三十一万三千七百五十束五把。〕
  久良〔久良岐〕
  都筑〔豆々岐〕
  多磨〔太婆、国府〕
  橘樹〔太知波奈〕
  荏原〔江波良〕
  豊島〔止志末〕
  足立〔阿太知〕
  新座〔爾比久良〕
  入間〔伊留末〕
  高麗〔古末〕
  比企〔比岐〕
  横見〔与古美、今称吉見〕
  埼玉〔佐伊太末〕
  大里〔於保佐止〕
  男衾〔乎夫須万〕
  幡羅〔原〕
  榛沢〔波牟佐波〕
  那珂
  児玉〔古太万〕
  賀美〔上〕
  秩父〔知々夫〕  

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